「もうじきたべられるぼく」読後感想
はせがわゆうじ=作
黄輝光一
ぼくとは、ウシさんです。
もうじき食べられるぼくが、牧場にいるお母さんに、死ぬ前にぜひ会いたい。会いに行く物語です。
しかし、この真実(ぼくが、まもなく食べられる運命にあること)を、もしお母さんが知ったら、さぞ悲しむだろう。目の前の牧場で、遠くに見える「お母さん」に会うことを断念する。が、しかし、自分を見つけたお母さんは、去り行くぼくを乗せた列車を、追いかけてゆく・・・
ああ、ウシの悲しい運命。思わずグッとくる内容です。悲しい!
さらに、この全面に描かれている絵は、「はせがわゆうじ氏」本人が、画材に、色鉛筆、クレヨン、ボールペンで描き、本当にやわらかく、ほのぼのとした暖かみを感じる、作者渾身の「思い」の入った絵です。
そして、圧巻は、最後の主人公の「うしさん」の言葉です。
「せめて、ぼくを食べた人が 自分のいのちを 大切にしてくたら いいな」
と、むすんでいる。
たべられるぼく
ふとってふとってたべられるぼく
ぼくは人間には愛されていない
それは、「ウシの運命」
ああ、お母さんに会いたい
この物語は、子供向けにも、大人向けにも、更に「小学校の食育の観点からも、幅広く容認される内容だと思われます。すなわち、給食で『牛さんを食べるときは、ありがとうと言って、感謝して食べましょう』ということですね。
それ以上、つっこんで書くということ、すなわち「動物愛護」「動物虐待」の観点から、「少しでもウシさんを食べる回数を減らしましょう。ウシさんも、人間と同じ、命ある動物なのだから」という「教え」です。しかし、これは人間の「食」の観点から見た場合、越えてはいけない「大きな壁」です。描き方によっては、子供たちの食生活、ズバリ「学校給食」に大きな波紋を投げかけることになります。
これを「食の限界」といいます。
この「もうじきたべられるぼく」という童話は、食の観点からも、子供の観点からも、その限界内で「きわめて美しく子供たちに「食の大切さ」を教える、そして子供たちが「食べ物」に関して、自ら「考える」大きなきっかけをつくる役割を果たしている、といえます。
が、しかし・・・
ここからは、
大人の童話作家「黄輝光一」が描く、ある意味、その対極にある「ピック」(ブタ)の死生観・世界観です。〔実は、ピックのメインテーマは、「食」ではなく、「命」とは何かです〕
それは、「人間が生きていくには、動物をたべないと生きて行くことはできない」という「真実?」です。しかし、黄輝光一が描く「ピック」の世界は、それを根底から覆す「真実」です。結論から申し上げると、我々「地球」の人間は、この地球上では、王様です。唯一の最高レベルの「知的生命体」だと自ら確信しております。が、しかし、広大なる大宇宙を眺めれば、人類は、いまだ、極めて低級なる「知的レベルにある」ということです。この大宇宙には、人類よりはるかに進歩した「文明社会を持つ宇宙人」は、億単位に存在しております。その彼らの知的レベル(霊的レベル)からは、「仲間である動物たち」を「食べる」ことは絶対にありえないと、彼らは感じております。〔そもそも、残念ながら、人間同士で戦争をしているレベルの低い宇宙人はいません〕
しかしながら、現実の地球上の世界は、100億以上の動物たちが、「人間の食」に、その命を奪われており、人類がみな、ベジタリアンやビーガンになるには、何万年もかかるかもしれないし、そもそも「動物を食べてはいけない」などということは、ありえない!微塵もそう思っていない大多数の人がいるのが、現実です。
「ライオンと羊が仲良くする世界」それは、黄輝光一氏のありえない独善的、希望的妄想であり、空想の世界である。と断言する人の方が、圧倒的な多数とおもいますが、
許されるなら、
その前提の上で、私の大人の童話「ピック」を、読んでもらえるとありがたいです。〔宣伝〕
ウシや、ブタが、人間に食べられるという、絶対的な「運命」などは、あろうはずはありません。とういより、あってはならないことです。すべての生き物との「共存共栄」です。
私の、第2のサイト「ウレラ公式サイト」は、そのような魂の最高レベルに到達した「宇宙人ウレラ」からの人類へのメッセージサイトでもあります。
人間が、動物を食べることをやめる。
それが、なしえない限りは、「人類の戦争の終焉」も、なしえません。
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